行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張! [雑記帳]
勝海舟という人は、幕末の人間の中では極めて先見の明がありました。
古くから、鎖国は世界情勢から実情に叶わずと見定め、開国を促した人物ではあります。
その開国したことに依って生まれたのが、『からゆきさん』でありますな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93
涙ながらに思えば、日本も昔は貧しかったのでしょうね。
昔気質の日本人なら、ひた隠しに隠したかった事実でありましょう・・・。
が、人はひもじさを免れる為なら、それだけのことはするのです。
一つには、家族を守る使命もあったかも知れません。
現在のように、不景気ながらも恵まれた時代ではありませんでした。
そうでもしなければ、飢え死にを待つばかりの人生が待ち構えていたのでしょう。
話が、今日の話題から逸れてしまいましたが、勝海舟という人はこう云ったそうです。
『行蔵は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張・・・』
意味は、『自分の出処進退は自分が決める、褒めるも貶すも他人の主張!』ですね。
とかく日本人というのは、他人の目を気にするようです。
欧米人のように、個人主義は貫きません。
後世にどう評価されるかまでを考えて行動するのは、日本人くらいですな。(笑)
戦後、個人主義が賛美されましたが、相も変わらず日本は鎖国主義であり村社会ですね。
言葉尻を捕らえられ、マスコミで批判され追求される政治家や芸能人の多さは只事ではないです。
おそらく、個人主義と村社会の2面性に挟まれて、翻弄されているのでしょう。
では、ここフィリピンではどうでしょうか?
日本と同じく島国ですが、ここには古くから外国というものが存在していました。
が、支配されていた歴史が長い分、ここもある意味でバランガイ(村)社会です。
掟破りの行動は、村八分ならぬバランガイ八分にされてしまいますね。
但し、いささか日本と違うのは、ある一定線を超えると個人主義を貫けることですな。
これは、宗教の違いでしょう。
最終的な善悪の判断は、他人ではなく神に委ねます。
これは、他人も同じ宗教を奉じているので基本的には同じですね。
バランガイ八分にされていた連中も、神様の前では許されてしまうから人も許さざるを得ません。
日本では、こうは参りませんな。
最後まで、徹底的に潰されてしまいます。
善悪の基準が人にある分、他人には厳しいのですね。
うっかりしたことを言うと、政治生命が終わりかねないから、どの政治家も縮こまってきました。
その分、右も左も似たような顔の政治家ばかりになりましたね。
出れば叩かれるのだから、どうしてもそうなるのでしょう。
全くもって、不可解でなりませんわ。
さあて、ここまで書いて今思いました。
私は一体、何が言いたいのでしょうね?(爆)
さあ、押しなはれやあ・・・・・
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